平成26年秋場所の感想

旭天鵬関:40歳での幕内、しかも勝ち越し本当におめでとうございました!

隠岐の海関:幕内下位だけど1年ぶりの勝ち越し!まだまだこれで終わらないはず

安美錦関:場所の少し前まで入院していたとは思えない…勝ち星2桁すごい

・遠藤関:苦難ですなあ、でもこれで過度なプレッシャーからは解放されるかも

・照ノ富士関:琴奨菊関への変化…!負けず嫌いなのが死ぬほど伝わってきた場所

豪栄道関:白鵬関との真っ向勝負めっっちゃくちゃかっこよかった

 

・逸ノ城関

ちょっとまってすごすぎる。入門前から名が知れてた「怪物」だけど、本当に一瞬でここまで来るとは……おそろしい。髷が結えないどころか、三賞知らなかったり*1、懸賞を受け取る所作を間違えてしまったり、土俵入りで仲良しの照ノ富士関と目があってしまい思わず笑ってしまったり、そんな慣れないことばかりの場所なのに、そうとは到底思えないほどの落ち着きっぷりと堂々としたお相撲。この後の巡業や出稽古では上位陣からめちゃくちゃかわいがられそうだけど、それがまた彼を強くするんだろうなあ。大きいし体重もあるから、皆が言うように怪我だけには気をつけてほしい…。

 

鶴竜

まさかそんな逸ノ城関との対戦が組まれるとは、そして変化を食らってしまうとは……あの取組に対する言及は他で死ぬほどされてるだろうからなにも言うまい。横綱になって3場所目だし、そろそろいろんなことに慣れて落ち着いてきたところで、持っている力を存分に発揮してほしいなあと応援していたのだけど、また次ですね。

 

 

十両の取組

栃ノ心関が優勝。怪我からよくここまで戻ってきたなあ本当すごいなあと。返り入幕となると、やはり先場所の本割と優勝決定戦でどちらも逸ノ城関を下してることから来場所はそこに期待が集まったりするのかな。またおもしろくなりそう。そんな栃ノ心関と後半まで優勝争いをしていた徳勝龍関と里山関もすごかった。しかし里山関ほんとここで故障はつらい。

 

 

今場所は里山関の他にも怪我人が多くて、妙義龍関とか千代の国関とかもちろん横綱日馬富士関とか、応援している力士の人が次々離脱していってしまった…みんなはやくよくなりますように。日馬富士関は手術しない治癒を選択したらしいけど*2、ゆっくりでもいいので全快に近い状態でまたお相撲とってるところを見せていただきたいです。本人は巡業や九州場所にも出たがってるみたいだけど。

 

 

秋場所もあと2日、全部結果が出ると千秋楽の話ばかりになりそうだったのでもう感想書いちゃった。

「ね!このサプリ本当に身体にいいから!あげる!毎日飲んでね!」「あっ大丈夫っす……」

普段、Twitterで話題になってることとかニュースとか誰かの発言に対して「それは違うでしょ」とか「なにいってだこいつ」と思っても、その感情をそのまま発信する前に、一息ついて携帯やPCから離れるようにしている。

その場の勢いでなにか述べようとしてたところで一息つくと、大体「まあいいか」と流せたり落ち着いたりすることが多い。

どこにでもめちゃくちゃなこと言ってる人や自分の意見とあわない人はいるし、それにいちいち反応してる自分も嫌だなあと思うので、頑張って大人な自分を演出している。

 

だから高校野球のおにぎりマネージャーの件も、軟式野球の延長に対して「虐待だ」とかいう論争が巻き起こってる件も、某スポーツ選手(男)が女性にセクハラされてかわいそうだとかいう件も、なんか巷で盛り上がってるけど自分はネット上では特に何も言わないできた。

 

けど、今ふと上の話題3つについて、「なんじゃその意見」って思わず突っ込みたくなったものを思い返してみると、なんか共通点があるような気がしたのでそれについてだけこっそり書く。

なんか、「犠牲にされてかわいそう」とか「つらい思いをしてる"はず"」とかいう、当人の気持ちを代弁してる風味をただよわせながらも実は個人的な意見を述べてるにすぎないやつ。

よく言えば人の立場に立って物事を考えようとする姿勢を持とうとしてるんだろうけど、その「人の立場に立って考える」が「自分の思いをその人に押し付ける」形になってしまっているのを見るとすごく気持ち悪いなあと感じる。

 

あのマネージャーは「本当は勉強したいけど、マネージャーやらされてつらいよつらいよー」って思ってるのだろうか。

軟式野球ですごいイニングまで延長で頑張ったナインは「3年間の集大成だけどさすがに体力きついし、もうじゃんけんでちゃちゃっと勝敗決めたほうがよかった」って思ってるのだろうか。

セクハラ受けた選手は「本当に嫌でした。訴えたいけど上司やし…」と思ってるのか(これに対しては公式に「別にそんなに深刻に考えてません」ってコメント出たけど)。

 

マネージャーの件なんて、「あの子かわいいし話題になりそうなネタがあるから取り上げちゃえー」って魂胆で、一部分しか見えない情報として発信されたもんだってまるわかりやんけ。

あの子に限らず、学業より命かけてますみたいな状態で何かに取り組んでる高校生はたくさんいるけど、たまたまメディアが取り上げたから情報として入ってきた訳であって。

そもそも取り上げられたあの子だけがマネージャーじゃなくて他に仕事手伝う後輩とか野球部員ゼロってことないだろうし、つらかったら自分から辞めるって選択すら出来ないほどの強制力なのかなとも思うし。

なのに、外野が「かわいそうかわいそうかわいそう」って、そんな意見持たれることがかわいそうだと感じてしまいました。

 

セクハラの件だって、なんか出てしまった映像を見て外野が「嫌がってるように"見える"」とか「やっぱり上司だししかも女性だから嫌だって言えないし、今も公式な見解として"出せない"んじゃなかろうか」とか、「かわいそうかわいそうかわいそう」とか、そんな意見持たれることがかわいそう(本人そんなに大事だと思ってないのに面倒くさそう)だと感じてしまいました。

 

まあ、この「感じました」っていうのも個人の一感情にすぎないんですけど。

 

ひとつの事例を全体に当てはめて、体制的にどうなっていくべきかという議論に発展していく時もあるけど、そうした時気をつけなければならないのはやっぱりその事例がひとつの例であって、体制を語る材料としては全然足りてないってこと。体制を議論したいならその話題だけじゃなく、もっと広くそのことについて知ってからでも遅くないんじゃなかろうか。

 

真実は見る方向や関わってる人の立場によって違うからひとつってことは絶対にないんだけど、少なくとも本人が望んでないことを押し付けて、まわりから嫌がられたりめんどくせーなーって思われる、おせっかいおばさんみたいにはなりたくないなあと思いました。

 

 

おわり。

謎の運命で出会い謎の使命感に燃える人

Twitterしながら試合見たりしてると、「なあみんな!僕らが応援してる選手に対してこんなひどいこと言ってるやつがいるぜ!ひどいと思わないかい?」「糞みたいなプレーしやがって、試合見てるみんなもそう思うよね?本気で応援してるなら思って当然だと思うんだけど」とかいうすごい発言がまわってきたりする。

まあ無視したり、自分のフォローしてる人の中でそんな事言ってる人がいたらすぐリムーブしちゃいますけど。

明らかに犯罪行為みたいなもんだったり周りに実害があったりってほどのものじゃない、すなわち物事の楽しみ方とか受け取り方とかをなぜかルールづけたり、なにかと統一しようとしたがる人って後を断たんのだよなあ。

なんかの本で読んだんだけど(とんでもなく曖昧な記憶)、そうやっていわゆる「○○クラスタ」みたいなコミュニティに属してる感を味わいたいのって日本人的らしい。

たしかに欧米とかだとそういうのないし、個人個人での意見とか楽しみ方とか確立させてる感じがする(とんでもなく曖昧なイメージ)。

こういう特徴は文化的なものとも大きく関わりがあることだし、いい悪いって話じゃないんだろうけど、個人的には名前も出さず、オフ会みたいのも特にせず、なんかに属するってのもない、すなわち後者っぽい楽しみ方をしてるから、きっと前者っぽい人の考えとは馬が合わないのだろうな。

 

とにかく、自分が思うことが大多数が思うべきことであって、大多数が思うべきこと以外はそのコミュニティに属してはいけない、みたいな謎の使命感で行動してる人ってなんか大変そうだなあと。

ほっとけばいいじゃん。

入院してた時の話

日テレつけると24時間テレビのCMとか番宣ばっかり流れる週になってきたなあ。

今日見たのは、「ガンに罹った子どもが母とした約束とは」みたいなやつだった。

 

実はわたくし、子どもの頃に入院していた時期がある。3歳くらいの時。病名は骨髄性再生不良性貧血。血液の病気で、血液の構成要素である血小板・赤血球赤血球が少なくなってしまう病気。

今はなぜか(←? でも本当になぜか)完治して、そんな病気したことはあえて口に出さない限り誰も思い出さないくらい普通の生活してるけど、当時の親の気持ち考えると自分の産んだ子どもが意味不明な病気になって親元離れて入院するなんてつらかっただろうなあと思う。

 

でも言いたいのは、子どもがそういう病気にかかるってつらかろう可哀想だろうって事ではない。

 

実は当時、当の本人としては入院生活を割と全力でエンジョイしてましたって話。

たしかに具合悪かったり採血や点滴されたり薬飲まなきゃいけなかったりとかはあったんだけど。今頭の中に残ってる記憶としては、楽しかったことがほぼ全部。

小児科の病棟には友達もたくさんいたし、ナースもみんな優しかったし、自分が入院していた病院には「ピンクさん」ていう、幼稚園教諭だか保育士の資格持ってる人とかも来てくれたりしたし、おもちゃとか広いスペースのあるプレイルームもあったし、家族はなぜかおもちゃとかよく買ってきてくれるしw、笑って過ごしておりました。

「深刻な病気であること」は確かに親とか祖父母のリアクションでなんとなく理解していたようには思うんだけど、「かわいそうだなあ」と周りが思って涙流したりするほどつらい思いした記憶がまっったくない。

 

 

それはなぜかというと、

 

大人と違って、子どもである自分は「今してるこの生活が、他の子と比べていかに普通じゃないか」を把握する術がなかったからだと思う。

「他の子は幼稚園とか保育園に行って外で走り回ってるし、毎日お母さんと一緒に寝てるし、点滴とか薬飲んだりとかはしなくていいし、何の問題もなくすくすく育ってる」っていうのを、知らない。今自分が経験してることがすべてだし、誰かが話してくれても理解する知能もそんなになかっただろうし。

だから自分のことかわいそうだとか、なんで自分だけこんな目にあわなきゃいけないんだとか、思ったりしたことなんて一度もない。

実際、子どもってのはすごい速さで適応していくもんで、入院して1ヶ月も経つと、面会時間が終わった親に対して「じゃ〜ね〜〜〜〜」ってふざけながら見送ったり、ナースステーションに乗り込んで「きょうの夜勤だれ?」とか聞いて遊び相手探したり、柵つきのベッド使って動物園ごっこしたりしてたようです。

 

もちろん子どもによって病気への考え方も違うと思う。寝たきりレベルで遊びもできない子だったら、つらいことしか記憶にないかもしれないし。あと自分がもっと頭のいい子だったら、お涙ちょうだいみたいなストーリー展開にふさわしく(ちょっと悪意のある言い方だけど)、きっと「なんで他の子と違うんだろう」って思えてて、悲しんでたかもしれない。

 

最終的な結論、そこそこ馬鹿な子どもでよかった。

 

ちなみに弟がおりまして、まだ小さい頃に親が姉につきっきりで通院するのに付き合わされたり、自分も検査のため痛い思いしたり、そっちのほうがつらかったんじゃないかと思ってたんだけど、病院の食堂にあったざるそばが大好物だったらしく「おれはざるそば死ぬほど食えたからめちゃくちゃ楽しかった」って言ってたから、姉弟揃って馬鹿で幸せだなあと思いました。

 

 

おわり。

ねるねるねるね

無性に生地を練りたい時がある。

そんな時に参考にするレシピ。

ベーグルとかプレッツェルとか、ぎっちりしたパンが好き。

 

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Cpicon ふんわり重視♡ふわっとベリーベーグル by Sむっちぃ

薄力粉と強力粉のバランスはこのレシピくらいがちょうどいい(個人的な好みですが)。ジャム入れないでプレーンで作ることが多い。家で作りやすい分量なので食べ切ってしまうことが多いけど、もし翌日以降にということであれば冷凍保存してます。

 

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Cpicon 本格ドイツパン!プレッツェル by さや&にょろ

プレッツェル好きすぎる。発酵の時間やタイミングはレシピによっていろいろ違うんだけど、これを参考にしてます。焼きたてが本当においしい。おつまみにもなるし主食にもなるしおやつにもなるし最強すぎる。

 

ちなみに、パンの冷凍保存については

  • ラップでひとつずつくるんだ後、ジップロックなどに入れて保管する。
  • 食べる時は自然解凍でOK。
  • トーストする場合は、凍った状態のものを水にくぐらせてからレンジでチン→トースターで焦げ目がつくまで。
  • 1ヶ月以内に食べきる。

という感じ。買ってきたパンとかでも冷凍保存は結構使えるから覚えておくといいことたくさんです。

アイスバケツチャレンジ お相撲まとめ

 
 
 
 
 
 
 
 
 

碇シンジくんみたいになった話

ひとつ前の記事でも書いた、「自信がある/ない」ってどういうことだろう、ということについて。

かくいう自分も、自分が嫌いで仕方なくて、自信がもてなかった。普段楽しいことがまったくない状態ではないんだけど、ああ生きててよかった!ってしみじみ思うことがあまりないというか。人づきあいをする時にもその自尊心のなさが足をひっぱって、仲良くしてくれている人たちに対して「友達も恋人も、本心では自分のこと嫌いなんじゃないか」「こんな自分嫌われても仕方ない」って思って、そういった気持ちをなるべく抑えるために「自分の本来の姿で向き合う<人に嫌われないようにふるまう」という人づきあいの仕方をしてた時もあった。

しかし、いろいろ経た今、結論から言うと、その精神状態からは脱している。人づきあいも、その頃より自分の本心をさらけだせる仲間とのものに変わっていっている。今でも、「あ~あれ余計な一言だったかな」とか「嫌われちゃったかな」とか家に帰ってきてどんよりすることが全くないわけじゃないけど。

なぜだろうか。あいかわらず自分のこと面倒くさがりだと思うし、外見的にも不細工極まりないし口は悪いし、ノリも悪いと思うけど。それでも、まあそれが自分か、と思えるのはなんでか。

 

「自分を好きになれないと、他人も好きになれないよ!」とかいう言葉がある。いろいろ考えるに、自分はこれに似たような思考を経たんだと思う。ただし逆の方向に。すなわち「他人を好きになれないと、自分も好きになれないよ!」ということ。

自分が嫌いだった頃の自分は、他人に対しても「うわなんだそれくだらない」とか「だっせー」とか「こんな人は友達いないだろうな」とか、心の中にしまっておくにしてもひどいこと思ってた。「友達」や「恋人」という親しい間柄の人に対しても、どこかその人たちをまるっと全て好きになれないもやもやみたいなものを抱えていた。なんでそう思うの?そういうこと言うの?それが好きなの?って理由を聞いて納得しようとしてみたり、いい方向に捉えようとすることなく。一方的にシャットダウンする感じ。嫌われないように接するのは、その人が好きだから嫌われたくないんじゃなくて、「そんなひどいこと思っちゃう自分だけどなんとか人づきあいはできるんだよ」という確証を得るためにだった、のかな。これはひどい。とにかくなんかいろんなことになげやりになっていたのでしょうかね。

でも、他人に対してそういう関わり方をするのってもちろんよくないし、それを越えてまず無駄なことだと思った。自分の見えている範囲のものを越えた経験や根拠やポリシーがあってその人がやっていることに対して、自分の中で勝手に価値をつけたり、違うことを批判するような思考に陥るのはなんかおかしいんじゃないか、と。自分より年が上とか下とか、学歴とか、メジャー/マイナーな思考とかそういうのまったく関係なく、その人はその人だからその人なのだ。

人を否定する感覚が自分の中にある、ということは、人づきあいにおいて絶対自分に返ってくる。自分が好意をもった人と少しでも違うところがあると感じたとき、その相手に「うわこいつのこういうところ、ないわー」って心の中で否定されてるんじゃないか、、と思ってしまうところから抜け出せない。結局、「人にそういう風に思われたくない」という関係の保ち方から抜け出せない。

 

で、人にはいろんな考えがあるんだと知ったり体験したりおもしろがったりした結果。あるがままの自分に対しても、これでいいんじゃないかって少しずつ思えるようになってきた。少しずつ自分が存在している自信をつけていった感じ。でもその「自信」は、他を否定するほどの思い上がりとイコールではない。自信があったり、これで間違いない!って思うのは、それ以外の人を認めないとか許せないってことではない。自分がこうして存在していることを認めると同時に、他人も同じように存在してることはすばらしいことである。

自分のこと好きになれなくて、何をするにも自信がないって思ってて、そして自信をつけるには「これだ!!」みたいな何かが必要でそれはなんなんだろう、とずーーーっと思ってたけど、実は必要なのは自分のポテンシャルとしての確固たる“なにか”ではなくて、そういういろんな人とか考え方を前向きに捉えることから始まったような気がする。自分の場合は。他人の言動に「ばっかじゃねーの」って思うことが全くないといったら嘘になるけど。

 

でもあれです。否定と選別はまた別の話。

考え方や好きなものが自分ととんでもなくかけ離れた人とはある意味割り切ったつきあいをする(関係を切り捨てる)ことも選択肢のひとつだと思う。これは精神状態を保つため、個人的にすごく大事だと思う。でも、何度も言うけどそれは自分と違う人を否定することではない。自分がよりよい精神状態で関われるランキングの上の方の人を見つける作業なのだ。ワーストランキングを作るものではない。

 

 

 

という、いろいろな思考と人づきあいの変化を経まして、こうしてわたくしはなんとなく今日も死にたいとは思わずに生きています。

 

こういう内面の悩みを解決したい人って、本当に自分の思考回路や行動についてよく分析できている(悪くいえば考え込みすぎているのだけど)。分析した心理状態とか、自分の性質みたいなものについてはある意味「自信」があるんじゃないかと思う。その悩みのゴールについても、たとえ実行できないにしても、こうなればいいな~ってことが頭に浮かんでいるんだと思う。自分の場合はそうだった。「自分が嫌いなのは自分に自信がないからだ」とわかっていた。でもどうすれば…それがわからなかった。

自分の内面に関わる問題って自分の中だけで解決しようとしがちだけど、まわりの環境や他者との関わりがなければ「自分」は存在しない。ならば、難しいかもしれないけどそのまわり存在と関わることで道が見えてくるかもしれない。すべてさらけ出して誰かに相談するのは難しいかもしれないし、失敗することもあるかもしれないけど、考えこんで、ハッとなにかにひらめいて、ある一瞬をきっかけにガラっと自分が変わる、なんてことはあまりなさそうだしね。人間関係における失敗って、1度やっちまったらもう取り返しのつかないものになりがちで思い切った行動がしづらいけど、本当に自分を変えたくて、もしくはこのままいくと本当に精神状態がまずい、っていうぎりぎりのところまで来ているなら、行動に出てみるのも、ひとつの手段であると思う。

 

というわけで、こういうふうに悩んでいたことを思い返してみた日記になりましたが、改めて、こういう日々を経て考えたことってすごくたくさん脳内にストックされているし、人生の糧になっているなあと思った。逆にこれがないまま何も考えずのほほんと人生を送っていたらと考えると、自分は、今の自分のほうがすきかもしれない。