みんなちがってみんなもんくいえない

自分自身がそういったメディアと切っても切り離せない生活をしていることも大きいんだろうけど、本当にSNSにおける人間関係のトラブルによく遭遇する。最近、ってほどでもないくらいに「悪口がどーの」だの「フォローがどーの」だの「既読無視がどーの」だの、メディアごとにいろんなトラブルが起きまくっている。

そういうインターネットを介したコミュニケーションについてのモラルとかリテラシーって問題視されてるようだけど、心構えとして知っておくべき基本事項みたいなものはどこにあるんだろうと思ったとき、言葉としては俗に言う「情報倫理」ってのに集約されてるんかなあということで、その辺をちょっとググってみた。

一般的に、情報倫理も通常の倫理学に通ずるもので、その規則に従うべきである。らしい。

ちなみに、通常の倫理的な規則として主に言われているのは2つ。
(1) 個人の自由を尊重する
(2) 功利主義(最大多数の幸福)

功利主義っていうのは、社会がうまくまわるために、最も多くの人が幸せだと感じる行動を心がけましょうねってもので、たとえば若者はお年寄りに優しくしましょう(それが自分の老後の人生含め幸せな社会につながるよ)、とかいうのもそれにあたる。

まあこの2つはインターネットを介したコミュニケーションにおいても心がけなければならないなあ、と思う。

(たまに、個人の自由は尊重されてるぞ~的な姿勢で好き勝手に物を言う人がいるけど、その発言が他の個人の自由を害しているということに気づいていないジャイアンみたいなツイッタラーがいる。キャラとして完成している。いや褒めてない。)

でも、これだけじゃ考えたいことの本質に触れてない。

インターネットを介したコミュニケーションが可能なメディアで倫理的に問題とされることは、詐欺やら不正なコピーやらドラッグの販売やら殺人教唆やら、そういった類の犯罪行為であることが主だ。こういった犯罪行為に対してなら、明らかにいけないっていう判断が容易にできるし、指摘も対策もはっきりとできる。著作権がーとか、肖像権がーとか、人を騙したりするのがーとか、そういうのは倫理的な問題として明らかにアウトであることはみんなわかっているし、共通の認識があるように思う。

そうじゃない。人間関係をめぐるトラブルに関わってくるのは、そういった明らかにダメなこと関連ではなく、思いやりとか優しさとか、いわゆる「道徳」だ。

でも、道徳的に考えようとすると、もう意味がわかんなくなってくる。最大多数の幸福って言うけど、じゃあその幸福ってなんだ?幸福の数量を客観的に計測できるのか?人によって捉え方はそれぞれなんじゃなかろうか?いかん、これじゃあネットとか関係なく、「人としてどう生きていくべきか」っていう哲学になってしまう…。

SNS上でという舞台設定がされている時の人の道徳心。わたくしはね、こうした問題の根幹には、「SNS」というもの自体に対する、使い方とか在り方についての認識の差異が大きく関わっているんじゃないかと思いましたよ~。

たとえば、よくある「嫌い」をめぐるトラブル。
「~は嫌い」というツイートをAがしたとする。
そのフォロワーであるBはそれを気に入っていた。
こういう時、BはAに対してどうするか。
・ 「わたしはそれが好きなんだから悪口はやめて」とAに返信する
・ 受け流してツイートは無視する
・ 気が合わないとみてリムーブやブロックをする

結論として考えから言うと、どれもありだと思う。なぜなら、思考や発言が個人の自由で尊重されているのと共に、SNS自体への位置づけや使い方は人それぞれで、どこにも決まりがないからだ。

衝突や反論や議論ありきでコミュニケーションすることがその人にとって「幸福」な使い方なのか、自分の意に反したことは排除したあたたかいタイムラインを眺めているのが「幸福」な使い方なのか、それは人によって違うし、どちらが正しいなんてない。

「お別れはブロックで」「~だったらRT」「既読無視はありえない」「会話は非公式RTで」「必ずフォローを返す」「食事の度に写真とってアップする」「顔も名前もどんどん晒していく」「思ったことははっきり言っちゃう」「ガンガン大喜利タグに参加する」どれもその人自身が心地よく活用するためのもので、みんなに共通したルールではない。

最近よく見られる「SNS疲れ」とか「SNSをめぐる人間関係のトラブル」とかいうものをそういう視点で解釈すると、内容をめぐる言い争いというだけじゃなく、人それぞれであるはずの「SNSの使い方」みたいなものを他人にも当てはめて考えてしまう人たちどうしの衝突もあるんじゃないかと思えてくる。

ここでわたくし、前に経験したことをひとつ思い出しました。

自分は某プロ野球チームを応援している。Twitterではさまざまなことをつぶやくが、試合とかチームの状況について言う時には、それだとわかる目印として、発言の最後にタグを付けている。
ある日、野球の試合を見ながら実況的なツイートをしてた時、相手チームの人がファインプレーをしたので、「うわーすばらしい!」ってつぶやいた。その発言の最後に応援チームを表すタグを付けて。
そしたら、リプライが来たわけです。「これはタグをつけたチームについての応援をするタグなはずなのに、相手チームの選手をほめるなんて非国民である!」みたいなのが。

これこそ、人によって違うSNSの捉え方の違いによる道徳問題だと思いましたよ。「(リプライするくらいの手間を厭わないのであれば)申し訳ないですけどお見苦しかったらブロックしてください」と返しました。

こんな感じで、内容とはまた別に、SNSの活用のしかたに関する認識が違ってると途端にこじれてしまう。あれ…仲良かったのになあ…みたいな。そのSNSにアクセスできる人全員に自分の発言が閲覧可能であるというオープンな状態で、こうした捉え方の違いがまったく起こる可能性がない、と断言するのは…難しい。

そう。人によって違うのだ。そしてその差が何であるかという本質をわかってないと、いちいちまともにぶつかったり、幻滅したりして、そりゃあ余計に疲れるしトラブってしまうのだ。

本音が言いたい。でもそれを見たら傷つくかもしれない人がいる。関わりたい人とだけ関わりたいのに、関わりたくない人ともなんとなく繋がっておかなければならない。いろいろめんどくさい。でもなんとなくSNSやってる。疲れる。って人もいる。でも、他人のSNSへの関わり方を推測したところであんま意味がないんじゃないかと思う。何度も言うけど人によって違うから。「メッセージの先にいる相手が受け取りたいように受け取って反応する。それがその人の使い方」では悪者になってしまう可能性もあるから嫌なのだろうか。でも、そうじゃないと結局自分が疲れてしまう。

疲れない方法もある。アカウント使い分けたり、ミュート機能のあるクライアントに変えたり、そもそも他人から批判や嘲笑の的にならないようなものしかつぶやかないようにしたり、つまりは自分のSNSに対する考え方に近い人を集める(そういった人の意見しか目に入らないようにする)やり方だ。なんで自分ばかり動かないといけないのって反論ありそうだけど、たぶんそれは違う。自分が勝手に「自分に合わない」と思ってるだけで、そうした自分の思考のために自分で環境を整えていくのは自然なことのような気がする。他人が自分と同じ思考に寄ってくることを待ち、「こうすべきなんじゃないの?」と思っているだけでは状況は変わらない。

まあ、そんなことしなくても、SNSというものに対してのスタンスは人によって違うよーってことをみんながもっと認識しあってたら、もう少し優しい世界になるのになーとすごく思う。手帳に日記書いてるのよりSNS 選ぶのって、やっぱり他人と関わりあっていろんな考えに触れられるところに楽しみがあるからだと思う。その人がSNSをどんな風に位置づけてるのかなーというところまで含め、他人の考えっていうのはおもしろいなあと思えたら、ネットでの人間付き合いがもっと好きになれるような気がします。

わたくし自身のことを申しておきます。既読にしても返す必要ないと思ったらだらだらLINE続けるのはやめますし、フォロー返しはしない時もありますし、自分のタイムラインに表示させたくない人がいたらブロックしたりこっそりミュートしてます。「ひどいやつだな」と言われても、しゃーないです。それが自分の道徳であり、幸福なのです。また、自分の幸福に当てはまらない人をひどいと思ったりもしません。それがその人の道徳であり、幸福であり、自分はそこに口出しできる者ではありません。

またブログを始める理由

こないだtumblr

「気に入った言葉や画像をリブログしてスクラップしていくのはいいけど、
それが自分から発せられたものだと勘違いして、
脳が考える作業をなまけていることが最近多い気がする」
みたいな文を見た。

たしかにその節はあるなあと思った。

tumblrでおもしろいpostを見つけたりした時、
それに対してなにかしら自分が思うことをアウトプットする場所がない。
リブログして、「自分はこういうpostと趣向が似ているアカウントです」っぽいことは表せるけど。

Twitterもやってるけど、
自分の頭とじっくり向き合うのには適してないしなあ。
そもそもあれはリアルタイムを重視したサービスで、ブログとは性質違うしね。

それぞれ、速い流れの中でまたすぐタイムラインを更新する作業にうつってしまう。

こりゃ怖い。

というわけで、またブログ始めました。


ちなみに、前やってたブログでもいろいろ書いたりしてた。
あっちは日記みたいな感じで友達とのこととか飲み会の割合が多いけど。

でも10年くらい続けてたし、いまだに残してあります。
(ちらほら名前が出てたり、昔すぎる記事は、恥ずかしくてたまらないので非公開にしてしまった)