碇シンジくんみたいになった話

ひとつ前の記事でも書いた、「自信がある/ない」ってどういうことだろう、ということについて。

かくいう自分も、自分が嫌いで仕方なくて、自信がもてなかった。普段楽しいことがまったくない状態ではないんだけど、ああ生きててよかった!ってしみじみ思うことがあまりないというか。人づきあいをする時にもその自尊心のなさが足をひっぱって、仲良くしてくれている人たちに対して「友達も恋人も、本心では自分のこと嫌いなんじゃないか」「こんな自分嫌われても仕方ない」って思って、そういった気持ちをなるべく抑えるために「自分の本来の姿で向き合う<人に嫌われないようにふるまう」という人づきあいの仕方をしてた時もあった。

しかし、いろいろ経た今、結論から言うと、その精神状態からは脱している。人づきあいも、その頃より自分の本心をさらけだせる仲間とのものに変わっていっている。今でも、「あ~あれ余計な一言だったかな」とか「嫌われちゃったかな」とか家に帰ってきてどんよりすることが全くないわけじゃないけど。

なぜだろうか。あいかわらず自分のこと面倒くさがりだと思うし、外見的にも不細工極まりないし口は悪いし、ノリも悪いと思うけど。それでも、まあそれが自分か、と思えるのはなんでか。

 

「自分を好きになれないと、他人も好きになれないよ!」とかいう言葉がある。いろいろ考えるに、自分はこれに似たような思考を経たんだと思う。ただし逆の方向に。すなわち「他人を好きになれないと、自分も好きになれないよ!」ということ。

自分が嫌いだった頃の自分は、他人に対しても「うわなんだそれくだらない」とか「だっせー」とか「こんな人は友達いないだろうな」とか、心の中にしまっておくにしてもひどいこと思ってた。「友達」や「恋人」という親しい間柄の人に対しても、どこかその人たちをまるっと全て好きになれないもやもやみたいなものを抱えていた。なんでそう思うの?そういうこと言うの?それが好きなの?って理由を聞いて納得しようとしてみたり、いい方向に捉えようとすることなく。一方的にシャットダウンする感じ。嫌われないように接するのは、その人が好きだから嫌われたくないんじゃなくて、「そんなひどいこと思っちゃう自分だけどなんとか人づきあいはできるんだよ」という確証を得るためにだった、のかな。これはひどい。とにかくなんかいろんなことになげやりになっていたのでしょうかね。

でも、他人に対してそういう関わり方をするのってもちろんよくないし、それを越えてまず無駄なことだと思った。自分の見えている範囲のものを越えた経験や根拠やポリシーがあってその人がやっていることに対して、自分の中で勝手に価値をつけたり、違うことを批判するような思考に陥るのはなんかおかしいんじゃないか、と。自分より年が上とか下とか、学歴とか、メジャー/マイナーな思考とかそういうのまったく関係なく、その人はその人だからその人なのだ。

人を否定する感覚が自分の中にある、ということは、人づきあいにおいて絶対自分に返ってくる。自分が好意をもった人と少しでも違うところがあると感じたとき、その相手に「うわこいつのこういうところ、ないわー」って心の中で否定されてるんじゃないか、、と思ってしまうところから抜け出せない。結局、「人にそういう風に思われたくない」という関係の保ち方から抜け出せない。

 

で、人にはいろんな考えがあるんだと知ったり体験したりおもしろがったりした結果。あるがままの自分に対しても、これでいいんじゃないかって少しずつ思えるようになってきた。少しずつ自分が存在している自信をつけていった感じ。でもその「自信」は、他を否定するほどの思い上がりとイコールではない。自信があったり、これで間違いない!って思うのは、それ以外の人を認めないとか許せないってことではない。自分がこうして存在していることを認めると同時に、他人も同じように存在してることはすばらしいことである。

自分のこと好きになれなくて、何をするにも自信がないって思ってて、そして自信をつけるには「これだ!!」みたいな何かが必要でそれはなんなんだろう、とずーーーっと思ってたけど、実は必要なのは自分のポテンシャルとしての確固たる“なにか”ではなくて、そういういろんな人とか考え方を前向きに捉えることから始まったような気がする。自分の場合は。他人の言動に「ばっかじゃねーの」って思うことが全くないといったら嘘になるけど。

 

でもあれです。否定と選別はまた別の話。

考え方や好きなものが自分ととんでもなくかけ離れた人とはある意味割り切ったつきあいをする(関係を切り捨てる)ことも選択肢のひとつだと思う。これは精神状態を保つため、個人的にすごく大事だと思う。でも、何度も言うけどそれは自分と違う人を否定することではない。自分がよりよい精神状態で関われるランキングの上の方の人を見つける作業なのだ。ワーストランキングを作るものではない。

 

 

 

という、いろいろな思考と人づきあいの変化を経まして、こうしてわたくしはなんとなく今日も死にたいとは思わずに生きています。

 

こういう内面の悩みを解決したい人って、本当に自分の思考回路や行動についてよく分析できている(悪くいえば考え込みすぎているのだけど)。分析した心理状態とか、自分の性質みたいなものについてはある意味「自信」があるんじゃないかと思う。その悩みのゴールについても、たとえ実行できないにしても、こうなればいいな~ってことが頭に浮かんでいるんだと思う。自分の場合はそうだった。「自分が嫌いなのは自分に自信がないからだ」とわかっていた。でもどうすれば…それがわからなかった。

自分の内面に関わる問題って自分の中だけで解決しようとしがちだけど、まわりの環境や他者との関わりがなければ「自分」は存在しない。ならば、難しいかもしれないけどそのまわり存在と関わることで道が見えてくるかもしれない。すべてさらけ出して誰かに相談するのは難しいかもしれないし、失敗することもあるかもしれないけど、考えこんで、ハッとなにかにひらめいて、ある一瞬をきっかけにガラっと自分が変わる、なんてことはあまりなさそうだしね。人間関係における失敗って、1度やっちまったらもう取り返しのつかないものになりがちで思い切った行動がしづらいけど、本当に自分を変えたくて、もしくはこのままいくと本当に精神状態がまずい、っていうぎりぎりのところまで来ているなら、行動に出てみるのも、ひとつの手段であると思う。

 

というわけで、こういうふうに悩んでいたことを思い返してみた日記になりましたが、改めて、こういう日々を経て考えたことってすごくたくさん脳内にストックされているし、人生の糧になっているなあと思った。逆にこれがないまま何も考えずのほほんと人生を送っていたらと考えると、自分は、今の自分のほうがすきかもしれない。